瀬田貞二(児童文学者)

瀬田貞二略歴

 1916年(大正5年)、現在の東京都文京区湯島に生まれた瀬田貞二は、1941年(昭和16年)東京帝国大学文学部を卒業後に中学校(夜間部)の教諭になりました。翌年に徴兵を経験し、終戦後1945年(昭和20年)に結婚しました。俳句雑誌『萬緑』の創刊と編集にたずさわったのち、1949年(昭和24年)に入社した平凡社では『児童百科事典』の編集などにたずさわりました。1951年(昭和26年)に浦和市(現さいたま市南区)へ転居しました。1957年(昭和32年)に平凡社を退社したのち、1959年(昭和34年)浦和の自宅で家庭文庫「瀬田文庫」を開きました。川村学園女子短期大学や青山学院女子短期大学の非常勤講師を勤めたのちも児童文学の翻訳や創作を続け、1979年(昭和54年)8月21日に63歳で永眠しました。

瀬田貞二と浦和

 1957年(昭和32年)、平凡社を退職した瀬田貞二は、「自分流に子どもの本とつきあう暮らし」[1]をはじめ、そのうちのひとつとして1959年(昭和34年)、浦和市太田窪(現さいたま市南区)の自宅で家庭文庫「瀬田文庫」を開きました。それは、石井桃子が村岡花子らと家庭文庫研究会を結成し、1958年(昭和33年)に自宅でかつら文庫を開いた翌年のことでした。児童文学者・吉田新一のインタビューで述懐しているように、石井桃子の「瀬田さんのところでもなさったら」というひとことに触発されたのもひとつの理由でしたが、直接の理由は、漫画本以外はあまり興味がないという知人の子どものために児童文学書を紹介したことがきっかけでした。良質な児童文学書を紹介することで、本に夢中になる子どもが一人増えたことに強く心を動かされたのです。また、浦和の駅から二十分も歩かなければならない瀬田貞二の家の辺りでは、満足な児童遊園も児童図書室もありませんでした。近所の子どもたちに本に触れる機会を作ってあげたいと思っていた瀬田貞二は、子どもたちがすきなように本を読むことができるように、家庭文庫をひらくことを決心しました。瀬田貞二は『児童文学論(上巻)-瀬田貞二子どもの本評論集-』[2]で次のように述べています。

 「よい児童図書館が津々浦々にできて、アザールのいうように、文学賞の権威をうらづけ、新進作家をひっぱり、出版と教育へ努力し、講座をひらき、諸国と交流し、貸出本を大はばに移動させ、くまなく浸透していく……そういう日を、私はなによりも切に待ちのぞみます。
 だがそれはいつの日でしょうか。それをただ待っているという話はありません。私はここに、新しい着実真剣なひとつの動きをひろいあげてみようと思います。それが、家庭文庫運動です。」

 瀬田貞二の家庭文庫は晩年までひらかれ、かつて常連であった子が大人になってやってくることもありました。また、志をともにする児童文学者たちにとっても思い出深く、追悼文集『旅の仲間-瀬田貞二追悼文集-』では、ありしころの瀬田貞二と家庭文庫の様子を垣間見ることができます。

 

 

 
candle creepy dark decoration
『旅の仲間-瀬田貞二追悼文集-』
追悼文集編集委員会/編 
瀬田きくよ 1980年
 
  • ^[1] 「インタビュー●私と子どもの本」 『児童文学論(下巻)-瀬田貞二子どもの本評論集-』(福音館書店 2009年)所収 p.13
    ^[2] 「家庭文庫」 『児童文学論(上巻)-瀬田貞二子どもの本評論集-』(福音館書店 2009年)所収 p.61

     

    瀬田貞二と児童文学

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    瀬田貞二略年譜

    1916年(大正5年) 東京市本郷区湯島に生まれる
    父、瀬田金之助、母、余寧
    初期の作品に使われた筆名の余寧金之助は、両親の名前から取っている
    1928年(昭和3年) 本郷小学校卒業
    1934年(昭和9年) 開成中学校卒業
    1938年(昭和13年) 東京高等学校文科乙類卒業、東京帝国大学文学部国文科入学
    1941年(昭和16年) 東京帝国大学文学部国文科卒業
    旧制東京府立第三中学校(現在の両国高校)の夜間部・桂友中学教諭となる
    1942年(昭和17年) 召集、市川市国府台陸軍病院の衛生兵となる
    のちに夫人となる同病院看護婦きくよ氏と出会う
    1945年(昭和20年) 復員、桂友中学校に復職、きくよ氏と結婚
    1946年(昭和21年) 中村草田男主宰の俳句雑誌「萬緑」創刊、余寧金之助の筆名で投句するとともに、編集事務を担当する
    1947年(昭和22年) 桂友中学校を退職
    1948年(昭和23年) 「萬緑」の編集事務を辞す
    1949年(昭和24年) 平凡社に入社
    1951年(昭和26年) 浦和市太田窪に転居
    1953年(昭和28年) <文>『地球の案内者たち』(寺島龍一画 実業之友社)
    1956年(昭和31年) <編>『児童百科事典』(平凡社 全 24 巻)
    <文>『なんきょくへいったしろ』(寺島龍一画 福音館書店)
    1957年(昭和32年) 平凡社を退社
    <訳>『オタバリの少年探偵たち』(C・D・ルイス作 岩波書店)
    1959年(昭和34年) 自宅に瀬田文庫を開く
    <文>『七わのからす』(堀内誠一画 福音館書店)
    1960年(昭和35年) 川村学園女子短期大学の非常勤講師となる
    <共著>『子どもと文学』(石井桃子らとの共著 中央公論社)
    1962年(昭和37年) 青山学院女子短期大学の非常勤講師となる
    <文>『アフリカのたいこ』(寺島龍一画 福音館書店)
    1964年(昭和39年) <共訳>『児童文学論』(石井桃子、渡辺茂男との共訳 岩波書店)
    1965年(昭和40年) 川村女子短期大学を退職
    <訳>『三びきのやぎのがらがらどん』(池田龍雄画 福音館書店)
    <訳>『ホビットの冒険』(J・R・R・トールキン作 岩波書店)
    1966年(昭和41年) <訳>「ナルニア国ものがたり」(C・S・ルイス作 岩波書店)
    1967年(昭和42年) <訳>『おおかみと七ひきのこやぎ』(ホフマン画 福音館書店)
    <著>『航路をひらいた人々』(さ・え・ら書房)
    1972年(昭和47年) <訳>『げんきなマドレーヌ』(ベーメルマンス作 福音館書店)
    1974年(昭和49年) 青山学院女子短期大学を退職
    <訳>『アンガスとあひる』(フラック作 福音館書店)
    1975年(昭和50年) <訳>『指輪物語』(J・R・R・トールキン作 評論社)
    1976年(昭和51年) <著>『十二人の絵本作家たち』(すばる書房)
    1977年(昭和52年) <文>『お父さんのラッパばなし』(堀内誠一画 福音館書店)
    <再話>『こしおれすずめ』(瀬川康男画 福音館書店)
    1979年(昭和54年) 8月21日逝去、享年63歳
    <文>『きょうはなんのひ?』(林明子画 福音館書店)
    1982年(昭和57年) <著>『落穂ひろい』(福音館書店)
    1985年(昭和60年) <著>『絵本論-瀬田貞二子どもの本評論集-』(福音館書店)
    2009年(平成21年) <著>『児童文学論(上下巻)-瀬田貞二子どもの本評論集-』(福音館書店)

    さいたま市で行われた過去の講演会、展示会

    講演会、展示会 講師 会場 開催
    講演会「子どもと本の心星 瀬田貞二の世界」 斎藤惇夫氏 東浦和図書館 2000.6
    展示会「瀬田貞二の世界」   東浦和図書館 2000.6
    武蔵浦和図書館「瀬田貞二生誕100周年記念展示」   武蔵浦和図書館 2016.5
    七里図書館「瀬田貞二生誕100周年記念展示」   七里図書館 2016.5
    片柳図書館「瀬田貞二生誕100周年記念展示」   片柳図書館 2016.6
    文字・ 活字文化の日記念講演会「瀬田貞二さんからの贈りもの」 中村柾子氏 中央図書館 2016.10
    展示「瀬田貞二の世界」   中央図書館 2017.11
    展示「没後40年 瀬田貞二の世界」   桜図書館 2019.7~2019.8
    展示「没後40年 瀬田貞二を読む」   東浦和図書館 2019.8
    児童文学者記念講演会「児童文学者・瀬田貞二のまなざし」 斎藤惇夫氏 中央図書館 2019.10
    特別展示「瀬田貞二 行きて帰りし物語」   大宮西部図書館 2019.12~2020.2