大宮公園ゆかりの文学者たち

大宮公園にはたくさんの有名な文学者たちが訪れています。

 

大宮公園

   1883(明治16)年、県下初の鉄道である現在の高崎線が開通しましたが、大宮には駅ができませんでした。この事態を打破するため、白井助七(しらいすけしち)などの地元有力者が大宮駅設置運動や大宮公園設置運動を展開したのです。そして、運動の甲斐あって大宮駅が設置され、あわせて氷川公園(現・大宮公園)が1885(明治18)年に開園しました。現在は日本さくら名所百選に数えられていますが、当時は桜が少なく、アカマツ林の中にハギやススキが自生する野趣に富んだ公園だったと伝えられています。
 有志からの寄附金と伐採した樹木の売払い代金を充ててなんとか開園したものの、維持管理費用の調達は困難でした。そのため、公園の大部分は旅館・料理屋・園芸業者等の民間事業者に貸し出されることになりました。旅館・料理屋などができたことで、公園は東京から気軽に行ける行楽地として親しまれ、多くの文人も訪れたのです。
 明治30年代後半には、公園の拡張整備の動きが始まりました。関東大震災や大恐慌の影響から工事は遅れましたが、1933(昭和8)年に児童遊園地を開設したのを皮切りに、野球場、サッカー場など運動施設がメインとなる現在の公園へと姿を変えていったのです。
 大宮公園には、多くの文人が訪れました。その一部を紹介します。

大西民子

大西民子肖像
写真:おおみやデジタル文学館

 1924(大正13)年~1994(平成6)年
 大西民子は、戦後活躍した女流歌人のひとりです。埼玉県職員として埼玉県立文化会館や、埼玉県立図書館で働きながら歌人としての活動を続け、生涯で9冊の歌集を刊行しました(没後に遺稿集1冊が刊行される)。
 大宮公園内にあった埼玉県立文化会館(現在の「埼玉県立歴史と民俗の博物館」の場所に建っていた施設)の敷地内には、かつて万葉植物園があり、植物園の管理や広報の仕事も任されていました。
 万葉植物園では、管理運営のほか、公園内ボート池のほとりの立て札に墨汁で万葉集の歌を書く仕事もしていました。

 

 この植物園の管理運営は文化会館にゆだねられたが、しんから植物好きの人物でもいなければ、到底維持できるものではなかった。(中略)その草木のほとりに立てる立て札に、万葉集の歌を書くのは私の仕事となった。昔の高札のような木の立て札に、墨汁で歌を書くのである。奈良女高師で習った国文学がこんな風に役に立つとは、思いもよらないことであった。
 

 引用:『まぼろしは見えなかった-大西民子随筆集-』 大西民子/著 さいたま市立大宮図書館/編集 さいたま市教育委員会 2007年 P200

 事務室で仕事中に歌の意味を間違えている少年の話し声が外から聞こえて、思わず飛び出して少年たちに歌の講釈をしてあげたといった逸話があります。

 

 大宮公園のボート池を望む台地上では昔から土器や石器がよく出土するところと知られ、昭和30年には発掘調査が行われ、弥生式住居や土器などが発掘されました。大西民子はこれらの発掘の仕事に携わり、また出土品が展示された郷土館へよく訪れていました。

 

 文化会館の広い敷地の一画を掘ったところ、県内でも珍しい朱塗りの弥生式土器が出て来て、大騒ぎとなった。やがて竪穴式の住居跡が復元され、郷土館も建てられて、郷土館にはいろいろな遺物が寄せられ、陳列されるようになった。幾つもの遺跡の発掘などに仕事で携わったことも、私にとっては大きな収穫だった。

 郷土館にはいろいろの埴輪があった。武人埴輪、農夫の埴輪、水鳥の埴輪のレプリカが飾られたこともあった。私は昼の休み時間などによくこの郷土館に入って、埴輪の前でときをすごした。

 引用:『大西民子集-現代短歌入門-(自解100歌選)』 大西民子/著 牧羊社 1986年 P28、29

 少女の埴輪や耳だけ出土した埴輪の馬に馳せた想いを歌に詠んでいます。

「手に重き埴輪の馬の耳一つ片耳の馬はいづくにをらむ」

「わかち持つ遠き憶ひ出あるに似てひそかにゐたり埴輪少女と」

 

大西民子の著作・関連資料

 

太宰治

太宰治肖像
写真提供:国立国会図書館

 1909(明治42)年~1948(昭和23)年
 『走れメロス』や『斜陽』などの作品の作者としても有名です。
 大宮公園近くの民家に滞在し、『人間失格』の 「第三の手記」 後半 と「あとがき」を書きあげて、完成させました。

  太宰治は1948(昭和23)年、3月に『人間失格』にとりかかり、熱海市花咲町の起雲閣に滞在して「第二の手記」まで書き、4月、三鷹の仕事部屋で「第三の手記」の前半を書きました。しかし起雲閣の滞在や三鷹の仕事部屋での執筆生活は、訪問客にわずらわされ、思うように進みませんでした。そこで大宮に馴染みのあった筑摩書房社長の古田晃氏が、大宮公園近くの大門町三丁目で天ぷら屋を営んでいた小野沢清澄氏に部屋と食事を提供してくれるよう相談したことがきっかけで大宮に滞在し、『人間失格』の執筆をすることになりました。

 『現代日本文学全集 78 定本限定版 石川淳 坂口安吾 太宰治集』 筑摩書房 1967年(P430) の太宰治年譜1948(昭和23)年に、「四月下旬から五月上旬にかけて、大宮市大門町の藤縄方に滞在して、『人間失格』を完成す。」とあります(居住地の所有者小野沢氏・名義人藤縄氏)。

 『人間失格』を書き上げたのは1948(昭和23)年4月29日から5月12日のことです。大宮での2週間ほどの執筆活動の様子が恋人・山崎富栄の手記「愛は死と共に」に記述されています。

 「五月九日。(昭和二十三年)四月二十九日、古田さん(筑摩書房主人)と、神田駅で待合せて、こゝ大宮市の一隅に修治さん(山崎富栄は太宰のことをこう書いている)と生活する。人間失格の第三の手記を執筆なさるためのカンズメ。藤縄信子さん(18)は顔立ちのよい、上品なお嬢様で、動作もおちついてゐて、よい方。お若いのに随分苦労をなさってこられたからなのでせう。お食事もこゝの御主人が大変心をこめておつくり下さるので、いつも美味しく頂き、お蔭で太宰さんもめっきり太って来られた。御自分でもそれが嬉しくて、やすみながら両腕を交互につくづく眺められてゐる御様子は、側でみていてもほゝえましい位。うれしく涙が出るほどです。どんなに丈夫になり度く思ってゐられることでせうか。編輯者の訪問責めに逢はないことだけでも気持がゆっくりして、いいことなのね。」

引用:『雨の玉川心中』 山崎富栄/著 真善美研究所 1977年 P185

 太宰治の作品に、直接大宮公園との関わりについて記述はありませんが、『新埼玉文学散歩 下 中山道・佐吉多万・古利根・元荒川』榎本了/著 まつやま書房 1981年(P50)には次のように書かれています。
 「太宰はほとんど散歩に出なかった。しかし時折銭湯の湯”松の湯”に出かける時、氷川参道両側の闇市がめずらしかったらしく、無口の太宰が「ご主人、今日は珍しい魚が出ていましたよ」と小野沢氏に言ったこともあったと言う。」

 武蔵一宮氷川神社の参道である氷川参道は、ケヤキを中心としたおよそ650本の樹木が南北約2キロメートルにわたり続いており、この参道を中心として、氷川神社、大宮公園、盆栽村などがまとまって立地しています。闇市に立ち寄る際、大宮公園まで足をのばしたこともあったかもしれません。

 『人間失格』を完成させた太宰は、大宮を離れた1ヶ月後の6月13日に恋人・山崎富栄とともに玉川上水に入水して自ら命を断ってしまいます。前日の12日には大宮に古田晃氏を訪ねていました。しかし不在であったため、小野沢氏に『グッド・バイ』(未完のまま絶筆)の続きを書きたいのでこの部屋は空けておいてほしいと言い残していました。

太宰治の著作・関連資料

永井荷風

永井荷風肖像
写真提供:国立国会図書館

 1879(明治12)年~1959(昭和34)年
 永井荷風は現在の東京都文京区出身の小説家です。
 1908(明治41)年に発表した短編小説集『あめりか物語』で人気を集め、数多くの作品を残しました。
 『歓楽』という小説には大宮公園が取り上げられています。
 また、大宮公園を舞台とした『野心』は、フランスの作家ゾラの影響を受けた永井荷風の代表作です。

 「夕方近く、二人の青年と一人の愛らしい少女の三人連が、此等の喧しい評判からは全く遠かつた大宮の停車場から、深い緑の樹陰に其位置を占めた或る旅館に這入った。」

 引用:『荷風全集 第1巻』 永井壮吉/著 岩波書店 1971年 P503





 

永井荷風の著作・関連資料

正宗白鳥

正宗白鳥肖像
写真提供:国立国会図書館

 1879(明治12)年~1962(昭和37)年
 正宗白鳥は岡山県出身の小説家です。
 
 自然主義文学の代表的作家ですが、のちに評論活動にも携わります。
 『微光』は、薄幸ながらも勝ち気な女性の半生を描く、自然主義作家の地位を確立した作品です。女主人公の「お国」が河津という男と、大宮の万松楼で気ままに遊んだという場面があります。
 
 大宮の萬松樓の二階に二日ほど氣儘に遊んで、歸るともなく二人は上野の停車場に着いて、再び會ふ機會を約束して別れた。
 
 引用:『現代日本文学全集 30 正宗白鳥集 1』 正宗白鳥/著 筑摩書房 1967年 P49

 

正宗白鳥の著作・関連資料

寺田寅彦

寺田寅彦肖像
写真提供:国立国会図書館

 1878(明治11)年~1935(昭和10)年
 高知県出身の物理学者、随筆家、俳人。
 雑誌「中央公論」(大正11年1月号)の『写生紀行』には当時の大宮公園の情景が紹介されています。

 「公園の入り口まで行ってちょっと迷った。公園の中よりは反対の並木道を行った方が私の好きな画題は多いらしく思われた。しかしせっかくここまで来て、名高いこの公園を一見しないのも、あまりに世間というものに申訳がないと思って大きな鳥居をくぐてはいって行った。」 

引用:『寺田寅彦全集 第4巻』 寺田寅彦/著 岩波書店 1997年 P309
 

 

寺田寅彦の著作・関連資料


高浜虚子

高浜虚子肖像
写真提供:国立国会図書館

1874(明治7)年~1959(昭和34)年 
高浜虚子は現在の愛媛県松山市出身の俳人、小説家です。
『武蔵野探勝』に大宮公園について次のような記載があります。

 大宮氷川公園―昭和8年1月29日―

  今年の初探勝は、正月三日大宮の氷川公園と極つてゐたが、虚子先生の風邪の為に思ひ切つて後に引き下げて、月末の二十九日の日曜に、矢張り大宮の氷川公園で催さるゝことになった。
  案内の葉書には、氷川神社の境内に午前十時に集まれと書いてあった。
  寝坊をした私は慌てゝ朝飯を済まし、直接大宮に向け自動車を飛ばした。
  この日は旧正月の四日で、しかも朝からの快晴で、春のような暖い日であった。
  赤羽から荒川を渡つて埼玉に入ると、沿道の風景は本当のお正月の様な長閑さであつた。
  浦和の町を過ぎると、間もなく残雪をかぶった大宮の駅が見えた。
  氷川神社の二の鳥居の前で自動車を下りて長い長い石畳を歩いた。
  行けども行けども連中らしい人影は一人も見えぬ。両側に注連を張って閉めてある古い藁家があった。私は昔の社務所の跡かと思って見て過ぎた。

   霜どけの道かへさんと顧みし

   芝原をどこまでも行く春がすみ

   松の根に浮み上りて残る雪

   連なりて残る雪ある木の間かな

   (以上四句虚子)

 引用:『武蔵野探勝』 高浜虚子/編 有峰書店 1972年 P169
 

高浜虚子の著作・関連資料

田山花袋

田山花袋肖像
写真提供:国立国会図書館

1871(明治4)年~1930(昭和5)年
田山花袋は現在の群馬県館林市出身の小説家です。
1907(明治40)年、小説『蒲団』を発表し、自然主義文学の代表的作家として活躍しました。
『東京近郊一日の行楽』に大宮公園について次のような記載があります。

 大宮公園

 大宮公園は、静かな好い処だ。初夏の朝など殊に好い。黄くなつた麦畑、田植の済んだ青々とした水田、松林には朝露がかゝつて、あたりが茫としてゐる。旅館―つれ込宿が三軒、ところどころの離座敷からは、艶なだらしのない浴衣姿の女が眠さうな顔をして此方へ出て来た。
 小説の一章二章は到る処にころがってゐる。ある旅館の離座敷では、若い男と若い妓とが心中した。ある旅館の下の八畳と十畳とでは、女のために、飛行将校と裁判所の人達とが喧嘩をした。女中にもいきな色の白い女が多かった。
『大宮公園の旅館には、滅多に泊れない、えらくぼりやがる』かう田舎の人は言ふが、それはつれ込宿としての設備がしてあるからで、そこでは普通の旅客などは、寧ろ喜ばない方である。役者と未亡人の密会、客と芸者との宿泊、さういふものを目的として建てられた旅館だ。
 東京附近にあるかういふ設備をした旅館は、此処は何方かと言へば静かで好い方で、池上や、森ヶ崎や、羽田や、向島や、さういふところに行くよりはぐつと静かで、そして田舎々々してゐる。おうと落附いてゐられる。稲毛と比べては、何方とも言へないが、稲毛の方が食物は好いが、静かなことは、矢張大宮の方であらうと思ふ。八重垣あたりで、茶代旅宿料の高いのを平気で、一夜男同士で静かに泊って来るのも興味がある。生中、箱根あたりに行くよりも逸興が多い。
 蛍時分には、早くから旅館で蛍を取らせて、客の需要に応ずるやうにしてゐるから、帰りにはそれを土産に持つて来ることが出来る。


引用:『東京近郊一日の行楽』 田山花袋/著 博文館 1923年 P89(国立国会図書館デジタルコレクションに掲載があります。)
 

田山花袋の著作・関連資料

正岡子規

正岡子規肖像
写真提供:国立国会図書館

 1867(慶応3)年~1902(明治35)年
 正岡子規創作の短歌や俳句は中学校の国語の教科書に収録されています。この正岡子規が大学の試験勉強のため、大宮公園内の料亭万松楼(ばんしょうろう)を訪れたのは1891(明治24)年のことです。その感想は随筆『墨汁一滴』に書かれています。正岡子規のうれしそうな様子が手に取るようにわかります。

 「…残る試験を受けなくてはならぬので準備をしようと思ふても書生のむらがつて居るやかましい処ではとても出来さうも無いから今度は国から特別養生費を支出してもらふて大宮の公園へ出掛けた。万松楼といふ宿屋へ往てここに泊つて見たが松林の中にあつて静かな涼しい処で意外に善い。それにうまいものは食べるし丁度萩の盛りといふのだから愉快で愉快でたまらない。」

引用:『墨汁一滴』 正岡子規/著 岩波書店 2005年 P150より

滞在中に大宮公園と万松楼について次の二句を詠んでいます。

 「大宮氷川神社  ふみこんで歸(かえ)る道なし萩の原」
 「氷川公園万松樓  ぬれて戻る犬の背にもこぼれ萩」
 

引用:『子規全集 第一巻 俳句一』 正岡子規/著 講談社 1975年 P39より

 
 

正岡子規の著作・関連資料

夏目漱石

夏目漱石肖像
写真提供:国立国会図書館

 1867(慶応3)年~1916(大正5)年
 文豪夏目漱石も大宮公園を訪れています。1908(明治41)年に発行された「ホトトギス」という雑誌で「正岡子規」と題して、大宮公園を訪れたいきさつについて、次のように述べています。

 「或る日突然手紙をよこし大宮の公園の中の万松楼に居るからすぐ来いといふ。行つた。ところがなかなか綺麗なうちで、大将奥座敷に陣取って威張つてゐる。」

 引用:『漱石全集 第25巻』 夏目金之助/著 岩波書店 1996年 P295

 当時の若き子規と漱石が大宮公園で会っていたという事実がわかります。
 漱石のその後の活躍は『坊っちゃん』などの作品名とともに、よく知られています。

 

夏目漱石の著作・関連資料

 

森鷗外

森鷗外肖像
写真提供:国立国会図書館

 1862(文久2)年~1922(大正11)年
 森鷗外は明治・大正期の小説家であり、夏目漱石と並ぶ文豪と称されています。1910(明治43)年に雑誌「スバル」に連載された『青年』の中で主人公の青年とその友人が遊ぶ場面が大宮公園です。
 
 「二人は氷川神社の拝殿近く来た。(中略)社の東側の沼の畔に出た。葦簀(よしず)を立て繞(めぐ)らして、店をしまっている掛茶屋がある。「好い処ですね」と、覚えず純一が云った。「好かろう」と、木村は無邪気に得意らしく云って、腰掛けに掛けた。」

引用:『青年』 森鷗外/著 岩波書店 2017年 P121


 

 
 

森鷗外の著作・関連資料