わがまちsai発見 見沼通船堀から見沼田んぼをゆく

芝川

さいたま市を南北に流れる芝川。 その流れに沿って広がる田園地帯を見沼田んぼとよびます。 現在でも歴史や伝説を感じさせてくれる史跡が残っています。 そんな見沼田んぼの一部、見沼通船堀から見沼代用水西縁の氷川女体神社にかけてご紹介しましょう。

「見沼田んぼ 見沼通船堀~氷川女体神社」地図見沼通船堀 八丁堤 木曽呂の富士塚 念仏橋 見沼代用水西縁 氷川女体神社 見沼氷川公園


古代、この地は海でした。 やがて海が後退すると広大な沼沢地へと姿を変え、そのまま江戸時代をむかえます。 寛永6年(1629)、この地を治めていた伊奈忠治いなただはるは、芝川を堤でせきとめ、この沼を灌漑用水地とすることを計画します。 そうしてできた用水地を見沼溜井ためいといい、このとき築かれた堤が今もその姿を残す八丁堤です。

時は下って徳川吉宗の頃、当時の新田開発の推進にあわせて見沼溜井も開発されることになります。 この見沼干拓を任されたのが井沢弥惣兵衛為永いざわやそうべえためなが。 為永は、八丁堤を切って水を流し、代わりの水源として見沼代用水を利根川からひいてきました。 これらの工事は享保12年(1727)の8月からわずか半年で行われ、広大な新田の開発をもたらしました。 有名な見沼通船堀ができたのはこの3年後の享保16年(1731)です。

近年の見沼は、減反政策のため田んぼが減り、昔の景色から大分変わってしまいました。 ですが、この地の歴史や伝説を感じることができる場所は今でも残っています。 またハイキングコースが整備されてJRの「駅からハイキング」が催されたり、バードウオッチングに人が集まったり、見沼田んぼはレジャーの場所として身近なものになっています。


見沼通船堀みぬまつうせんぼり

見沼通船堀

東西の見沼代用水とその中間を流れる芝川を結ぶために作られた、わが国最古の閘門式こうもんしき運河。大正末に陸上交通の発展によって見沼の舟運はすたれてしまったが、現在では関などが復元され遊歩道も整備されている。夏には船を通す実演が行われる。


八丁堤はっちょうづつみ

見沼溜井造成時の堤。現在も交通量の多い道路として活躍している。沿道には、見沼通船の差配役だった鈴木家の住宅、水神社すいじんじゃ附島氷川女体社つきじまひかわにょたいしゃなどがある。


木曽呂の富士塚きぞろのふじつか【川口市】

木曽呂の富士塚

寛政12年(1800)に築かれた県内最古の富士塚。台地の上にさらに5mの高さで築かれているのでかなり高く、通船堀を眼下に眺めることができる。頂上には火口があり「お鉢巡り」もできる。ふもと近くにある厳島社いつくしましゃには「弁天様と馬子」の伝説が伝わっている。


念仏橋ねんぶつばし

念仏橋

木の橋だったころ、渡ろうとするとみしみしと揺れたので、人は落ちないように念仏を唱えながら渡ったという。


見沼代用水西縁みぬまだいようすいにしべり

見沼代用水西縁

代用水にそって桜が見事。現在の見沼田んぼは花や植木の栽培が盛ん。1年を通して様々な花が楽しめる。


氷川女体神社ひかわにょたいじんじゃ

祟神天皇の時代に勧請したとされる由緒ある神社。社叢しゃそうは県の「ふるさとの森」に指定されていて、厳かな雰囲気に包まれている。「片目の鯉」などの伝説が伝わっている。


見沼氷川公園みぬまひかわこうえん

見沼代用水をはさんで氷川女体神社の向かいにある公園。見沼干拓後におこなわれていた「磐船いわふね祭」の遺跡がある。ハーブガーデンも見どころ。公園の中ほどに、ちょっとリアルなかかしの像がある。この像は唱歌「案山子」にちなむもの。この唱歌の作詞者武笠三むかささんは氷川女体神社の神主家の出身で、見沼田んぼの風景をイメージして作詞したという。国語学者金田一春彦の書による歌詞の碑がかかしの足元にある。
左手に見える森が氷川女体神社の社叢。


見沼のい・ろ・は ・・・本の紹介

書名 (書名をクリックすると、検索結果画面が表示されます) 著者名 出版者
『見沼・その歴史と文化』
写真豊富でみやすく、とにかく解説が読みごたえあり。
浦和市立郷土博物館/編集 さきたま出版会
『浦和を知る事典』 青木 義脩/著 さきたま出版会
『見沼田んぼを歩く』 小林 義雄/著 農山漁村文化協会
『井沢弥惣兵衛』
井沢為永を絵と豊富な解説で読みやすく紹介。
市川 正三/画文 見沼代用水土地改良区
『浦和市史 民俗編』 浦和市総務部市史編さん室/編 浦和市
『川口市史 通史編』上巻 川口市/編 川口市

※このページは、来ぶらり通信第3号(2007年4月15日発行)の「わがまちsai発見」を再編集したものです。