バラのまちだより No.8

バラのまちだより No.8表紙

世界各地の「バラのまち」探訪 ブルガリア

世界中でブランド物の香水などに使われているバラの香料の約7割はブルガリア産です。国土のちょうど中央あたりに位置する「バラの谷」で、400年前から栽培・搾油が行われています。

毎年5~6月、花が咲く季節には、「バラの谷」の町や村で、8日間にわたる盛大な「バラ祭り」が開催されます。民族衣装にいろどられた歌や踊り、「バラの女王」コンテストやバラ摘みなど、もりだくさん、ロゾヴォ(「バラの村」の意)という村のバラ畑では、バラの馬車に乗った花婿とバラで着飾った花嫁とのロマンチックな結婚式のショーを見ることができます。

たった1グラムの精油をとるために、3kgものバラの花が必要だそうです。金より貴重なバラの花を集めるため、女性やロマの人たちが腰の周りに大きなビニール袋をくくりつけ、つぼみが閉じているうちにと朝の5時からバラ摘みにはげみます。

参考

薔薇を描いたひとびと ~バラと絵画 日本編1

「バラのまちだより」にたびたび登場している"花のラファエロ"ルドゥーテだけでなく、古今東西の画家がバラの美しさに魅せられ、その姿を絵に描いています。今回は、日本国内から4人の画家をご紹介します。

病床に残されたバラ

児島善三郎(1893-1962)

福岡出身の洋画家。日本の伝統絵画の造形をとりいれた「日本人の油絵」の様式を確立しました。

亡くなったときの病室には8枚の絶筆が残されていたそうです。そのうちの1枚「薔薇」は壷とテーブルクロス部分が白く塗り残されたままになっています。

日本ボタニカルアートの草分け

二口(ふたくち)善雄(1900-1997)

東京大学理学部植物学教室に勤務、文部省の理科図集の制作にも携わりました。ボタニカルアート協会の創立委員の一人です。『ばら花譜』は、10年の月日をかけて日本各地の山々やバラ園でスケッチしたバラの画160枚と鈴木省三氏らの解説から成る画集です。

油絵を描いた禅坊主

中川一政(1893-1991)

子どもの頃は美術に縁がなく、寺へ入門を思い立ったり、文章を雑誌に投稿したりしていました。独学ではじめた絵が岸田劉生に見出され、画家への道を進みます。日本画、書、詩などでも才能を発揮しました。力強いタッチの薔薇の絵を多数のこしています。中川の絶筆も薔薇の絵でした。

灯火管制下の植物図譜

木下杢太郎(1885-1945)

本名・太田正雄。木下は医学博士でもある彼の文芸・評論活動用のペンネームです。『百花譜』は太平洋戦争の灯火管制下、枠付洋罫紙に写生した植物画872点をまとめた画集。正確で繊細なスケッチに、戦況や病状についての一言が添えられています。

参考

バラにまつわるこんな本はいかがですか?

スペイン王女キャサリンはイギリス王子アーサーと幸せな結婚をするが、アーサーは病死。アーサーの弟・ヘンリー8世との再婚でとりもどしたかに見えた幸せも、やがて運命の波にさらわれてゆく。政局に翻弄され続けながらも誇りを捨てず生き抜いたキャサリンの生涯。

「花壇がほしいの」第二次世界大戦後のロンドンで、庭づくりに一心に励む少女ラヴジョイ。その情熱はやがて、周りの人々の心を動かしていきます。「すっかりわかっている気でいたのに、ずっとこういうものがあったなんて―最後はどうしてもバラにいきついてしまう。」はじめてバラをみたときのラヴジョイの様子に心打たれます。

プロレタリア作家同盟や雑誌「日本浪蔓派」「輝ク」に参加した小説家、若林つや。昭和文学史を背景に、小林多喜二との淡い恋、芳賀檀との報われぬ愛をからめながらつやの作品と人生をたどる。芳賀邸の薔薇園をずっと守り続けたつやの姿が、白薔薇に重なる。

中央区はバラのまち…図書館ホームページのごあんない

「バラのまちだより」は、さいたま市図書館のホームページ内「さいたま専科」でもご覧いただけます。バックナンバーでご紹介している資料を検索、予約することもできます(予約には窓口で発行するパスワードが必要です)。どうぞご利用ください。