北浦和図書館 浦和ゆかりコーナー

北浦和図書館では、浦和が登場する小説・エッセイなどを展示しています。

浦和ゆかりコーナーの場所

浦和ゆかりコーナーは、北浦和図書館2階にあります。

北浦和周辺の散策ガイド

 北浦和図書館の周辺を中心に、北浦和駅や点在する史跡や公園を紹介します。北浦和近隣は、もとは針ヶ谷村の一部でした。合併によって木崎村の大字、浦和町の大字となり、昭和9年(1934年)の市制施行によって浦和市大字針ヶ谷となり、 大字針ヶ谷、大字領家の一部から針ヶ谷町一丁目~四丁目と北浦和町一丁目~五丁目ができました。

北浦和図書館

 北浦和図書館は、昭和49年(1974年)1月11日(金)、北浦和一丁目に「浦和市立図書館」として開館しました。図書館ができる前は映画館がありました。北浦和映画劇場またはシアターパールという愛称で呼ばれていました。

 


北浦和駅

 北浦和駅は地元の寄附による請願建設駅でした。住民が針ヶ谷の三山(三郎山・稲荷山・天王山)を拓き、学校用地を造成し、湿地を耕作地にかえた結果、用地買上げがされ、学校用地代金は北浦和駅建設資金の寄附金として国鉄に提供されることになりました。北浦和駅は昭和11年(1936年)に開設。翌年には旧制浦和中学校(現県立浦和高等学校)が領家に移転。文教都市浦和の礎を築く上でも重要な要素だったと思われます。

 


廓信寺(かくしんじ)

 慶長14年(1609年)、浦和郷一万石の代官・中村弥右衛門尉吉照(なかむらやえもんのじょうよしてる)が初代岩槻城主である高力清長(こうりききよなが)冥福のため建立しました。本尊の木造阿弥陀如来坐像は鎌倉時代初期のものです。もともとは大阪城にあったもので、落城により徳川氏にわたり、その後、中村弥右衛門尉吉照に拝領されたものと言われています。

 

 

紅赤発祥の地

 廓信寺の参道入口に紅赤の発祥地という解説板があります。この周辺が山田いちが紅赤を発見した場所です。家業の傍ら畑仕事に励み、明治31年(1898年)にさつまいもの新種を発見し、その普及に努め、後世、全国の七割が「紅赤」で占められるほどになりました。その功績により、昭和6年(1931年)には、女性では初めて「富民賞」を受賞しました。紅赤はキントキとも呼ばれ、おいしいさつまいもとして親しまれています。
 紅赤について、くわしくは「さつまいもコーナー」をご覧ください。


北浦和公園

 県営の都市公園。昭和49年(1974年)に開設されました。昭和57年(1982年)には、公園内に埼玉県立近代美術館が開館しました。旧制浦和高校の正門があります。公園の南側に隣接して、さいたま市立浦和北公園があります。

 

 

埼大通りのけやき並木

 北浦和駅西口から国道17号線を越えると、所沢までのおよそ17kmの沿道に約2,400本のけやきが植えられ、緑のアーケードがつくられています。「日本一長いけやき並木」として親しまれており、北浦和公園とけやき並木に彩られた四季を感じられます。


浦和北公園

 浦和北公園は市営の公園で、昭和47年(1972年)に開園されました。浦和北公園がある場所には、旧制浦和高等学校がありました。その後、埼玉大学が設立され、旧制浦和高等学校は埼玉大学の1学部に吸収されました。 昭和47年に埼玉大学が現在の場所に移転し、大学の跡地に浦和老人公園(後の浦和北公園)が開園されました。園内には、旧制浦和高等学校に縁のあるバンカラ像や当時植樹された楷の木等があり、管理棟の名前も楷の木に因み楷楓亭と名付けられました。

 

旧制浦和高等学校

 20番目の官立高等学校として大正11年(1922年)4月に開校しました。大正デモクラシーの影響のもとで、古い伝統にとらわれない自由で清新な校風を作り上げ、文教都市浦和の名を高らしめましたが、学制改革により、昭和25年(1950年)3月に閉校しました。

恭慶館

 大正5年(1916年)に開館した浦和町公会堂は「恭慶館」と名付けられ、渋沢栄一の揮毫による額を掲げ、多くの市民に親しまれてきました。伝統文化の拠点として、茶道や華道、俳句をはじめとする文芸活動のほか、着付けや香道などに利用されてます。


埼玉県立近代美術館

 北浦和公園の一角にあり、昭和57年(1982年)に開館しました。
 浦和ゆかりの画家寺内萬治郎、前衛的な作品で知られる瑛九(杉田秀夫)をはじめモネ、ルノアール、ルオー等の作品も収蔵しています。「椅子の美術館」とも言われ、開館当初から近代以降の優れたデザインの椅子を収集し、常時数十種類を館内に展示しています。これらの椅子はただ鑑賞するだけではなく、自由に座ってそのデザインを楽しむこともできます。
 くわしくは埼玉県立近代美術館「今日座れる椅子」をご覧ください。

 


音楽噴水

 北浦和公園内には彫刻の広場、野外ステージ等があり、中央付近には音楽噴水があります。 決まった時間に音楽と噴水によるオーケストラ(2時間おきに10分間)が見られます。
 くわしくは埼玉県立近代美術館「音楽噴水」をご覧ください。

 

 

下総皖一(しもふさかんいち)先生を称える碑

 北浦和公園内には作曲家・音楽教育家の下総皖一氏を顕彰した碑があります。現在の埼玉県加須市(旧大利根町)大字砂原出身。「たなばたさま」、「野菊」、「はなび」など数多くの童謡・唱歌のほか、埼玉県の学校をはじめ、多くの校歌を作曲しました。

 

 

天王川コミュニティ緑道(天王川遊歩道)

 天王川コミュニティ緑道は、水路を暗渠にした遊歩道です。「領家二丁目公園」から「元町通り」間の全長510メートルは水と緑をテーマとした散策路として、近隣のオアシスとなっています。
 天王川は、昔、針のように細長い谷間から流れ出る小川で、高台に初夏の疫病を牛頭天王神力で封じる天王社があったことに由来します。

 

針ヶ谷三山(三郎山・稲荷山・天王山)と天神山

 天王川遊歩道の西側に、針ヶ谷三山と称される三郎山・稲荷山・天王山という3つの山がありました。
 三郎山は、浦和郷一万石の代官、中村弥右衛門尉吉照の陣屋がありました。徳川家康は江戸入部後、高力清長を二万石の岩槻城主とし、同時に浦和郷一万石を預け地としました。清長は家臣の吉照に浦和郷の支配を命じました。清長の死後、吉照は冥福を祈るため廓信寺を建立しました。
 稲荷山は、妻恋稲荷山とも呼ばれ、村の鎮守の妻恋稲荷が祀られた、小高い松の山で非常に景色の良いところでした。
 天王山は、大木が生い茂り昼なお暗く未開の原生林を思わせる神秘的な高台でした。近くを流れる天王川は、夏に流行る疫病を封じる『牛頭天王社』がその名前の由来とされ、この天王山も同様と考えられます。後に幕府代官となった中村弥右衛門尉吉照は、針ヶ谷村の新田開発にも力を入れ、慶長11年(1606年)には天神社(天満宮)を勧請し針ヶ谷村の鎮守としました。その地が天神山です。また、天神山に鎮座する針ヶ谷三社のうち、稲荷は稲荷山にあったとされています。


参考文献
『北浦和歴史再発見-開館40周年記念北浦和歴史発掘プロジェクト-』さいたま市立北浦和図書館/編 さいたま市立北浦和図書館 2014
『北浦和れきし図書館-北浦和駅ができた頃-1階』さいたま市立北浦和図書館/編 さいたま市立北浦和図書館 2012
『北浦和れきし図書館-旧制浦和高等学校-2階』さいたま市立北浦和図書館/編 さいたま市立北浦和図書館 2012
『北浦和れきし図書館-廓信寺-3階』さいたま市立北浦和図書館/編 さいたま市立北浦和図書館 2013
『北浦和発展史』松本 正一/著 浦和 1973


テレビ広報番組「のびのびシティ さいたま市」

浦和のまちを散策しよう!/テレビ広報番組(令和2年11月15日)

サッカーのまちとして有名な浦和ですが、そのほかにもさまざまな一面があるのをご存知ですか?7種類のルートがある浦和区文化の小径マップを浦和ガイド会の方と一緒に散策します。

YouTubeで配信しています。(新しいウィンドウで開きます)

関連サイト

恭慶館(さいたま市ホームページより)

埼大通りのけやき並木(さいたま観光国際協会ホームページより)

浦和区文化の小径マップ「北浦和界隈を歩く」(さいたま市ホームページより)

埼玉県立近代美術館(埼玉県立近代美術館のホームページ)

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